円七面鳥

不定期

Unearth2

まるがつばつにち

 

 

 

 正確を期すならばこれを日記と呼んでいいのかどうか分からないけれど私はこれを日記として記すことにする。

 本の中によく出てくる日記というものは個人が個人のために書いた文章としてはやたらめった説明的であったりする。日記の読者というのは本来その人ひとりだけのはずなのにその人の体験した出来事や伝え聞いた内容がしっかりと整理された語り口で一から十まで未来の読者に対してとても親切に記される。もちろんそれは日記を内包する物語が不特定多数へと向けて書かれている以上しかたのないことではあるけれどやはりどうにも不自然だ。
 でもそれを言ったら一人称の小説だってだいたいがおかしいとおもう。語り手は他の登場人物の容姿や自分の眺める景色や何気ない物事について事細かに比喩や修辞たっぷりに言及してみせるけれど普段からそんなこと考えて生きてるひとが一体どれくらいいるというのだろう。一人称の地の文とは語り手の内心作用ではなかったのか。一人称において語り手は見るとはなしに見たり何気なく耳にしたことを意識の俎上に載せなければならない義務が課されている。そこには無意識が存在しない。あるいは無意識であることを意識しなくてはならない。それはどうにも生き物らしくなく窮屈だ。
 でも実はそんな違和を解消するとっても単純で簡単な方法がひとつある。具体的すぎる日記も意識の強すぎる一人称も何が問題って実際の日常にそういうものが存在しないからおかしく見えるんであってじゃあそういうのが実際にあればあるいはそういう思考が当然ならばそれはおかしくもなんともないはずだ。というわけで要するに自分でやっちゃえばいいのだ。日記をつけるときは読者の目線を意識して微に入り細を穿つ記述を心がければいい。見上げた雲の形をすれ違った人の顔をふだんから心の中で小説みたいな言葉で描写すればいい。そうすればほらあなたという実例があるのだからどんな言葉もちっとも作り物でないよ。
 あなたが作り物でもない限り。

 

 この日記がこんなことをいちいち回りくどくくどくどと書いているのもその一環と言えなくもないけれど私の場合はもうちょっと事情が込み入る。この日記の読者は私ひとりだけではない。この文章は私の姉である古明地さとりにも読まれる予定なのだ。……カタク書いてみたけどなんか違うのでこれからはお姉ちゃんと書く。お姉ちゃんという読者がいる以上は私の勝手気ままに私にだけ分かる文脈で書くというのもどことなく不親切な気がするしそもそもそれは求められているものなのだろうかと疑問でもある。

 吐き出された言葉というのは頭の中で形作られたものであって心の中のキモチそのものじゃない。感情というものはもっとこうぐにゃぐにゃしていて好きなのに近寄りたくなかったり嬉しいのに恥ずかしかったり憎たらしいのに穏やかだったりいやそもそも『好き』とか『嫌い』とか『嬉しい』とか『悲しい』とかそんなはっきりした言葉という容れ物に収まっている代物じゃないからいつだって表に出てくるのは容れ物の中に無理やり押し込められて形を変えた別物にすぎないのだ。瞳を閉ざす前の私は他人のそれを覗けたわけだけれど覗き見るまだ定義されていないぐにゃぐにゃは端的に言って気持ち悪かった。のだとおもう。でなければ私はこうして瞳を閉ざしてなどいないだろう。
『おもう』と書いたけど別におもってない。思考はしていない。私には『私』がないのだから。ただ便宜上そのように書いた方が分かりやすいと判断したからそのように書いたのだろうし今も『判断した』と書いたけど判断なんてしてない。つまり本質的には全部気まぐれだ。でもそんな気まぐれの中にわずかでも『私』をうかがい見ることのできるよすががあるのではないかとお姉ちゃんは期待しているようでだから私にこれを書かせている。
 と書きながらそういえば外の世界の人間が無限匹のサルに無限に文字を書かせる実験をしていたなぁと思い出す(別に思い出してはいない。でもこんな風にいちいち訂正?するのも面倒だからこれからは省略する)。お姉ちゃんが小難しそうな本を読んでいるのを横から覗いていたら説明してくれたのだ。なんだっけ。ヒトの言葉を理解していないサルがてきとうに書き並べた文字列が意味を成す文章となるのは天文学的な確率だとかなんとか。そんな話だった気がするけどなんで私はいまこれを思い出したんだろう。心の中の言葉を持たない私が気まぐれに並べる文章がどうしてこのようにそれなりにまとまった文字の連なりになっているのか不思議?それこそ奇跡なのかもね。というのは嘘。意識されない言葉だってたくさんあるでしょうというだけの簡単なお話だ。無意識を操る私にかかれば無意識のままにそれを取り出してこうして並べるのも造作もないことなのだ。
 とここまで書いたものを読み返してみるとなるほどたしかにまるで私がちゃんと考えているみたいだ。でもお姉ちゃんはこんなもの読んで楽しいのだろうか?どうせ同じく読まれるならせっかくだし楽しいことを書くようにしよう。その方がお姉ちゃんも楽しいだろう。

 楽しい話ってなんだろう。霧の湖のお屋敷に行ってフランドールと遊んだこと?水蜜と一緒に血の池地獄で溺れたこと?こころが変な踊りをしてたこと?こうして挙げてみると誰かと過ごした時間ばかりが浮かぶ。ぜんぶ忘れちゃうからなんにも覚えてない私がそれでも話せることは私の無意識がつかんで離さないとってもとっても大事な思い出のはずだから何を書いたってそれは私にとって興味深いことのはずだけどそれは私にとって意味があることでお姉ちゃんにとってはどうなのだろう。こういう話ってちょくちょくお姉ちゃんにもしてるし今さらかもしれない。
 へぇしてるんだそういう話。お姉ちゃんに話した内容どころかいついつどこそこで話をしたという事実からして手放してしまうというか最初からつかめない私の心だけれど『こういう話ってちょくちょくお姉ちゃんにもしてるし』と書いたということは私は心じゃないどこかでちゃんと私の体験した出来事を覚えていているのだろう。そしてそれらを無意識のまま文脈に合うよう的確に引き上げて文字として後に残る形を私も含めた誰にも参照できる形を与えることができる。言うなれば紙上の仮想人格ね。発見発見。
 筆が止まった。
 わざわざ『筆が止まった』と書いたのは時間の経過を示したかったからだ。それも単純な経過ではなくて何かに気づいて頭ばかりが回ったとき特有の意識の飛ぶ感じを表現しようとしたからだ。何に気づいたの。何に気づいたの?私がいる。私はいるよ?ここにいるじゃない。違うそうじゃなくて。サトリは心を読める。お姉ちゃんは私を読めない。ということはお姉ちゃんがサトリじゃないか私に心がないかだけどお姉ちゃんはサトリだ。だとしたら?だとしたらこの文章はいったいなんなのだろう。通常紙に書き出された文章に人格を見出したとしてそれを誰が仮想人格などと思うだろうか。人格がうかがえたのならそれは直截に人格だろう。いったん別の領域に逃してから再適用することなんて普通はしない。私の場合は普通じゃない?そうかもしれない。