円七面鳥

不定期

誰のための証明か

【前置き】

・ミステリ関連トピックのつもりで考えたこと

・思考がとっ散らかっている。とっ散らかったものそのまま拾って書き起こすのでおそらく破綻するしこれといった結論もない

・誰かが読むことをあまり想定していない。不親切

・誰も私が車輪を再発明することを止めることはできない――

 

【考えたこと】

誰にも誤りを指摘されない解決は誤っていると言えるのか

分岐

・とくに間違ってない/どっかしら間違ってる

・作中現実レベル/読者を含む

問題意識は「どっかしら間違ってる」に向いてるのでどっかしら間違ってる

 

中学生のころに美術の先生が「誰も来ないようなジャングルの奥地で巨大な樹が倒れたとして、この樹は倒れたと言えるか」という質問をした。私は「倒れたって言ってるんだから倒れたのだろう」と思った。先生は「倒れたと回答する人は、これまでの人生経験から、そんな巨大な樹が倒れて誰も気づかないはずがないと思うのだろう。しかし、誰にも観測されなければそれは倒れていないのと一緒なのだ」というようなことを言った。私は「なんでその樹が倒れたって知ってるんですか?」と思った。

あと倒れたという事実を観測せずともそんな巨大な樹が倒れたなら周囲にもけっこうな影響が出るはずなのでその影響が誰か一人にでも感じとられたのなら樹が倒れなかったということにはならない。いやまあ先生の言いたかったのであろうことはなんとなく分かる。でも樹が倒れるたとえは不適当だと思う。なんかよく分かんないたとえだったなとたまに思い出す。

 

もっと狭い話から考える。

偏見なんだろうな~というのを実感もないまま承知しながら書くと、宗教にはそういう性格がないか。宗教ってめちゃくちゃ話広いじゃん。なんか、共同幻想というか共有概念としての「フィクションに出てくるめっちゃ怪しい教義の、都合良い感じの新興宗教」とか、そういうの。神様による証明。託宣。信者間だけで成り立つ共通認識。

そういうのの対極にいそうなやつ。数学。1+1=2です。小学生に円周率が3より大きいことを示してみせたとして、その証明に意味があるのか。ここで小学生というのは証明の内容を理解できないという意味です。でも円周率がだいたい3.14ってのは「正解」の「知識」だな。ノイズありそう。

証明が及ぶ範囲。たぶん本当の対象はあまねく世界すべて。理解できなくても正しい証明は正しい。本当に? 証明の影響力。受け取る側の理解力。閉じた輪。円周率が3より小さかろうが大きかろうが、いまここでそれは確かめられるのか? 輪。閉じた輪で起きる歪みみたいなものが興味の対象の本質なのかもしれない。ありがち~

 

探偵が推理を語る。事件は解決する。どんでん返しとかなく本も終わり。めでたしめでたし。その本を読んだ人はみんな推理に納得。でも実はその推理には間違いがあった。読者全員、掛け値なしに読者全員が間違いに気づかなかったとしても、その推理は正しいのか。

「なんでその推理が間違いだって分かったんですか?」